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短編小説『戦場を超えて(戦場を越えて)』

 彼女はアメリカ人、ホワイト、女性報道写真家。戦場にも赴く。特にアフリカの内戦を撮る。写真の何枚かは世界的に有名。私は日本人、男性、マイナーな写真雑誌の編集長。自分では写真家のつもりで、日本の自然を撮る。彼女は実在する女性をモデルにし、私は実在する私をモデルにした。その女性がこれを読めば自分と分かる。その女性の同意は得ている。それはたやすい。だが、今後のその女性のことを考えて、私とその女性以外がこれを読んでもその女性と分からないほどに脚色した。私については私の知り合いがこれを読めば私と分かる。それは別にかまわない。隠すようなものはない。それどころか、その女性との出会いを誇りとして語りたい気持ちも少しある。
 彼女とは三年前の夏に京都の銀閣寺庭園で出会った。銀閣寺には順路があって、有名な狭義の銀閣寺を見た後、裏山に登り、降りてきて少しの間、新緑の小道を通る。その小道を撮るために、私は観光客が途切れるのを待っていた。しかも、太陽が雲間から出て、光が差すまで待たなければならない。そのときそこで、彼女も同じものを待っていた。お互い仕事で、お互いのことを気にしてはいられない。観光客は途切れるが光が差さない。光は差すが観光客が途切れない。それを繰り返す。彼女も私も諦めない。数十分、経った。やはり、諦めが漂った。思わず、私と彼女は互いを見て苦笑いした。彼女がプロの写真家であることは分かっていたから、まずビジネスについて聞いてみた。すると、自分は報道写真家で日本の風景や文化財を撮るのはいわゆるリフレッシュのためと言う。
 門前の坂道の土産物屋に二人で入って、ビールで乾杯した。当時、彼女は二十歳代後半。私は五十歳代前半。私は英語は少ししかできないが、話しているうちに何とかなるものだ。それとも彼女が気を効かしているのか。報道写真で世界を巡っていると、英語が下手な人間に合わせられるようになるのだろう。
 少し話し込むと、彼女は自分のことを語るようになった。彼女はそういう人間のようだ。彼女は母親から虐待やニグレクトを受けていた。父はアル中で彼女が学校に上がる前に離婚し離別した。小学校の頃には母親の虐待はなくなったが、自己中心的な干渉が止まらなかった。彼女はなんとか母親から離れようとした。中学校高学年で家出をした。ギャングがパパになることもあったと言う。そんなこともあってカネには不自由しなかった。そんな中でも彼女は父が忘れて行った祖父譲りの35mm一眼レフNikon Fと三本の単体レンズを離さなかった。彼女の祖父はベトナム戦争を撮った報道写真家だった。祖父はベトナムで死んだ。遺品としてNikon Fと三本のレンズが戻ってきた。彼女は四、五歳頃、父から祖父の話を聞いたのを覚えている。そして、彼女は報道写真家になった。Nikon Fはデジタル一眼に替わり、単体レンズはズームレンズに替わったが、父たちが残したNikon Fは今でも使うことがあると言う。それらのことを彼女は一見したところ淡々と語る。
 どうも私は彼女に気に入られたらしい。結局、私は彼女の予約していたホテルまで行き、部屋を替えて彼女と一夜を過ごした。私と彼女は日本でいう二周り違う同じ干支である。彼女は同年齢の若い男性と付き合えないようだ。それは何故か。若い男性にどうしても残る支配性と破壊性に対する不安からである。彼女の支配性と破壊性が鏡のように映るからである。
 翌朝、と言っても、私と彼女はほとんど眠らなかった。セクシャルインターコースなるものは一回だけだが、彼女は延々と語った。戦場に行くのは恐い。戦場に発つ前の夜が一番、恐い。だが、戦場が近づくにつれて恐怖が薄れていく。写真を撮っているときは恐怖は全くない。銃弾が飛び交う中に飛び出して行くときは快感さえある。たまたま、自分がデモ隊の先頭に立ち、デモ隊を先導する形になったことがある。写真を撮りながら思わずファイアー(撃て、発射)と叫んでいた。死んでもかまわないとも思わない。死を忘れていると言う。彼女はそうやって自身の支配性と破壊性を発散していたのである。また、彼女は大衆を扇動するルックスと声をもっていた。彼女にファイアーなどと叫ばれたら、世の男どもは奮い立たざるをえない。場合によっては命も落とす。また、報道写真家は写真を撮るために権力の側または反抗や抵抗する側とある程度の良好な関係を築き維持しなければならない。その過程で報道写真家がそれらに利用されることは大いにある。また、報道写真家がそれらを扇動することがある。それらの支配性と破壊性と外見と報道写真の現実をもってすれば、彼女は専制君主や独裁者になる可能性を大なり小なりもつ。もっとも、彼女はその可能性を知らない。私も言わない。
 私の職場や家庭は東京で、その翌日の夜に新幹線で東京へ帰る。偶然、彼女も同じ日の夕方に関空からニューヨークへ発つ。後、二日ある。その日は奈良の西ノ京へ行った。薬師寺を一通り見た後、唐招提寺へ。古寺、古壁、木漏れ日、新緑。彼女はグレイト、エキセントリックなどを繰り返してシャッターを切った。彼女は唐招提寺と鑑真についても調べて来たようで、私などよりよっぽど知っていた。何度か失敗し盲目になっても日本に渡った人間に何を感じたのか。戦場を撮る彼女の目的と共通するものがあったのか。確かに、そのような目的がなければ彼女は今ごろ薬物か何かで別の人生を送っていただろう。
 その夕方は唐招提寺の前の料理屋でビールを飲んだ。私は、この歳になって、しかも、アメリカ人と恋をするなど思ってもみなかった、とも思わなかった。十代、二十代の男と変わらない恋をした。東の空に夕焼けが映りピンク色に染まる。小さな雲が流れる。暑い一日が終わる。
 そのうち、冗談ではなく、二十四歳年上の男と付き合うなど君はアブノーマルだと言ってみた。彼女は、今夜はもっと変態になりましょう、と変態という単語だけ日本語にして言う。自分はサディストだと言う。それは違う、性的なサディストや広義のサディストではない。サディズム・マゾヒズムなどという性的または浅薄なものではなく、以下のようにいわゆるパーソナリティに根ざしている。
 普通、母親の適度な愛情があれば、乳幼児は母親の愛情に辟易するようにして母親から離れ、粘着、自己顕示、支配、破壊などを停止し、粘着性、自己顕示性、支配性、破壊性などが減退する。母親の愛情がなければ、それらは減退しない。母親から愛されなかったために君の中で支配性と破壊性が残っているのだ。君はそれらを戦場で発散している。
 だが、私は君の写真の価値を認める。写真家にせよ芸術家にせよ何にせよ結果がよければよい。彼女は言う。あなたも同じ。それは違う。私はマイナーな写真雑誌の編集長だ。
 彼女は言う。自分が日本で撮った写真の著作権をあなたに上げると。あなたが撮ったことにして欲しいと。彼女は報道写真家であり、自然や文化財の写真を彼女が撮ったものとして公開できないと。その代わりに、また日本に来る旅費を出して欲しいと。さらに、彼女が所属するアメリカの団体の英語の著作を日本語へ翻訳をして欲しいと言う。私はふと自分の現実に戻った。その英語原典を日本語に翻訳して出版すれば、翻訳さえうまくいけば、翻訳といえどもベストセラーになるだろう。そのアメリカの団体は、現在、その英語原典を大幅に改定しており、その大改定版の各国語への翻訳者を探していると言う。彼女はその団体の報道写真家だが、世界各国での翻訳者探しもしていると言う。英語原典の著者たちはいくつかの非民主的政府の民主化を巡る言論によってそれらの政府から命を狙われていると言う。英語原点の著作者たちの秘密は絶対に守って欲しいと言う。いずれにしても、翻訳者が命を狙われることはないと言う。確かに私が命を狙われることはないだろう。契約が成立した。つまり、彼女が日本で撮る自然と文化財の写真の著作権と、彼女が所属する団体の英語の著作の大改定版の日本語への翻訳権を私は取得した。
 彼女も私も大酒家である。彼女も私も言いたい放題である。確かに彼女は報道写真家として感性をもつ。だが、自然を撮る写真家として別の感性をもつ。自然を撮る感性は彼女の中で増大しつつある非支配性と非破壊性である。彼女の支配性と破壊性が減退したとき、彼女は別のタイプの報道写真家になる。だが、それを私が言った頃には彼女は、インターネットで調べながら、翌日の予定を立てていた。明日は明日香へ。漢字も彼女は調べて来たようだ。
 翌日。飛鳥へ。幸運なのか三日続けて晴れではないが晴れ時々曇り。今夜、彼女はニューヨークへ帰る。私は東京へ帰る。二人ともそのことのほうが先立った。その中でも二人は仕事をした。風よ吹け。二人を千数百年前の飛鳥に連れて行け。当時の飛鳥で彼女を大統領にして民主制と権力分立制を確立してみようか。二人とも睡眠不足で二日酔い、しかも、暑い。彼女は言う。「私はアナタより千歳年上よ(I am a thousand years older than you)」。飛鳥なら千五百歳は年上ではないのか。いや、千六…千四…。知らねえな。
 夕方、近鉄から阪和線経由で関空へ。彼女は来年また来ると言って去って行った。私は新幹線で新大阪から東京へ帰った。こんなに切ない新幹線に乗ったことがない。日常へ戻る。二、三日は日常と彼女との出会いのギャップに苦しんだ。修学旅行から家に帰って来た小学生のようなものだ。やはり、五十代で恋をするのはきつい。血圧も上がる。タバコやアルコールも増える。このうえ失恋まですれば死んでしまいそうだ。
 彼女の写真は私が編集長をする写真雑誌で公開した。特に反響があったわけではない。大衆から見ればただの風景写真だ。むしろ、彼女が所属するアメリカの団体の著作の大改定版を日本語へ翻訳することのほうが私のライフワークに思えてきた。日本語への翻訳さえうまくいけば、日本でもベストセラーになるだろう。その希望によって私は生きることができたのかもしれない。
 結局、彼女は三年間、日本に来なかった。その間、彼女の報道写真を紙上で何枚か見たが、作風に変化が見られた。戦争の残虐さを伝えるものから、戦争の中でたくましくジョークを交えて生きる人々を伝えるものに変わりつつあった。
 三年後の五月の連休。京都の駅ビルで私と彼女は再会した。彼女は外見からして変わっていた。容貌は少しふっくらとし、眼つきの鋭さがなくなっている。彼女は言う。報道写真をやめようか。戦場に行くのが恐くなった。もう以前のように銃弾が飛び交う中に飛び出して行けない。報道写真の売上も落ちたと言う。写真で戦争をなくすことはできないと言う。写真で戦争をなくせるかは別として、戦場に行くのが恐いというのが普通だろう。銃弾が飛び交う中に飛び出すなどということは普通ではない。母親の愛情希薄によって形成された彼女の支配性と破壊性の発散がセンセーショナルなものを求めるマスコミに利用されたのだ。それらが減退したとき、報道写真家としての彼女は終わった。いや、一つのタイプの報道写真家が終わった。別のタイプの報道写真家が始まる。または、別のタイプの写真家が始まる。彼女は母親にさえなれる。親から虐待を受けた子供は親になると子供を虐待するという世代間伝播が終わる。そして、彼女にとっての私は終わる。彼女は同年齢の男性を愛せるようになる。私は捨てられ日常に戻る。
 哲学の道を歩いた。風景写真家としての彼女の始まりである。哲学の道の見所は道ではなく水路にある。水路の遠近感。水面に映る新緑。水路を固める石垣と新緑に差す太陽の光。それらは写真や絵画の基本である。彼女は撮って見せた。まだまだ。ここから撮れば、水路はもっと続くだろう。この際、水路はもっと続くほうがいいだろう。報道写真では相手が刻一刻と動き変化するからアングルを変える余裕がない。風景写真では相手がゆっくりと変化するから、アングルを変えることができる。彼女は自然や文化財の写真を撮るために私を必要とする。また、彼女にしてみれば、二、三年に一回、日本に来て私と会うのも悪くないようだ。私にしてみれば、彼女が所属するアメリカの団体の英語の著作の大改定版を日本語へ翻訳する翻訳権を維持するために彼女を必要とする。また、英語原典の著者たちが非民主的政府から命を狙われることについて、英語原典の著者たちの秘密を守れるのは私だけである。私は今は亡き某大国の拷問を数か月間、凌いだことがある。運よく、というか歴史的必然として数か月後に解放された。ちなみに、その解放者とはエリツインでもプーチンでもなく、それらの直前の、訳の分からぬことを言うおっさんである。そのおっさんはもっと分かりやすく言えばよかったのに。プロレタリアートの中にも階級闘争があると。そんなこともあって私には権力を舐めてかかる癖がある。権力の味は鉄の味。何より私は彼女が好きだ。大好きだ。そんなこともあって、私と彼女の付き合いは続いている。
 そんなことより、もし、彼女と私が出会っていなかったら、彼女は独裁者になったかもしれない。端的に言って、私は独裁者を抹殺した。もう少し正確に言うと、私は彼女が大なり小なりもつ独裁者になる可能性をかなり減少させた。私は東京と京都、奈良などを往復しただけだが、国境を超え、戦場を超えて。

[写真注:冒頭の写真は私のアドバイス後にその女性が取り直した写真である。京都の駅ビルで再会した時点ではその女性は自分が風景写真を始めると思っていなかった。簡単に言って風景写真に本気ではなかった。だから、その女性は撮影する画像のサイズを480×640に設定していた。哲学の道で撮ったとき、その女性は本気だったが、画像のサイズを本気モードに切り替えるのを忘れていた。だから、冒頭の写真の原版のサイズは480×640のままでいわゆる低画質である。だから、写真展に出展できるものではない。だが、それなりの価値のある写真だと思う。]

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